初めまして🌷さとちえと申します。
現在在宅ワークで働いている2児のママです。
そして実はワンオペで発達障害児を育てるママでもあります。
このブログに立ち寄ってくださった方の多くは、発達障害の子を育てていたり、子育てと仕事との両立に悩んでいるのではないでしょうか?
「発達障害児の子育てと仕事は両立できるの?」
「在宅ワークって何?生計立てられるの?」
このようなお悩みを抱えている方もいらっしゃると思います。
私も会社員時代、これらの悩みをずっと抱えていました。
子どもの特性や体調不良で急な欠勤をすることが多く、常に会社に対して罪悪感を感じる日々。
毎日「保育園に行きたくない!」と泣き喚く子どもを引きずりながら保育園に送迎する日々。
毎日毎日子どもを怒っては後悔し、自己嫌悪に陥る。
子どもだけでなく矛先は夫へも波及し、常にイライラを当たり散らす。
お恥ずかしいですが、現実逃避をしたく、何度も家出をしたこともあります。笑
そんな日々に嫌気が差していた頃、現在の働き方を見直すきっかけとなる出来事が続きました。
そして「こんな毎日は嫌だ!もっと子どもに寄り添った生活をしたい!」と一念発起。
その日のうちに会社へ退職の意向を伝えました。
(決めたら即行動な私…収入の不安はどこか片隅に追いやってしまいました笑)
「これで病むほど悩んでいた日々とはおさらばだ!」
退職届を提出した瞬間、そう思ったことを今でも覚えています。
そして現在では、子どもの状況に寄り添いながら在宅ワークで収入を得る生活を送ることが出来ています!
生活も大きく変わり、何より私のメンタルが安定したことで、子どもも大きく崩れることがなくなりました。
「在宅ワークを始めてよかった!」心からそう思っています。
今回同じような悩みを持つママに向けて、ご自身のキャリアを諦めることなく発達障害の子へ寄り添える生活を実現できるヒントをお届けしたい!と思い、このブログを立ち上げました。
私の経験をたくさん記事の中に散りばめておりますので、少しでも皆様の背中を押せたら嬉しいです!
今回は「在宅ワークに至るまでどんなことがあったの?」をテーマに、私の半生を振り返りながら、会社を退職するきっかけとなった出来事や今後の在宅ワークでの目標などをご紹介いたします。
基本情報
佐藤智惠(さとちえ)
年齢:30代前半
家族構成:夫、長男5歳(発達障害)、次男2歳
居住地:翔んで〇〇〇〇
出身地:伊達政宗の県
特徴:ワンオペ、実家・義実家ともに遠方、自身もADHD要素満載
長男:「アスペルガー」と「ADHD」の混合型の可能性あり(未診断)
現在保育園と並行して療育に通園中。
(午前中保育園、午後療育)
そして私もADHDの特性がかなり強いなと感じています😅
忘れっぽい、せっかち、完璧主義、頭の中が色々な考えでいっぱいになる、etc
このことで生きづらさも要所要所で感じてきました。
だからこそ「長男には生きづらさを乗り越えてほしい!」と強く感じているのかもしれません。
このような思いもあり、子どもに寄り添える在宅ワークは最高の働き方だなと感じています!
生い立ち:誕生〜高校時代
出生
・警察官の両親の元、3姉妹の長女として誕生。
・両親が共働きだったため、1歳前に保育園に入園。
小学校
・友達と遊ぶ毎日。
・通信教育で少しずつ勉強を始める。
・両親が勉強に厳しく、毎日進捗を報告していた。
中学校
・入学と同時期に先輩から壮絶な無視を受ける。
・先輩と無視に加担していた同級生を見返したく、勉学に励む
・3年間学年上位をキープし、無視していた人たちの目の色が変わる
・県内一位の高校に合格する。
高校時代
・人生で初めて勉強で挫折する。トップ集団の中で、なかなか上位に行けない苦痛を味わう。
・完璧主義の性格が邪魔をし、勉強することそのものをやめてしまう。不登校気味になる。
・一方で、現在まで交流の続く友達と出会う。
大学時代:サークル活動を通じ、自信を徐々に取り戻す
その後、なんとか大学には合格したものの(後期試験で地方国立大に拾ってもらいました)
希望であった理系の学部には行けず、結局両親に幼い頃から言われていた「看護学科」に進学することとなりました。
入学後は、勉学から逃げるように陸上部の活動にのめり込みます。
これまでほぼ帰宅部だった私は、初めて部活動というものに触れます。
遅れてきた青春を陸上部の活動を通してたくさん経験し、自分自身、大きく成長できた4年間だったと思います。
特に、炎天下の中、初挑戦のフルマラソンを完走できたこと。
当時、何においても自信がなかった私の自己肯定感を高めてくれる出来事になりました。
真夏の34℃の中、先輩たちが続々とリタイアしていくのを横目に、「完走できるのだろうか」と不安な気持ちになっていました。
しかもその大会は、フルマラソンの制限時間がかなり厳しいことでも有名でした。
練習の記録では、制限時間内の完走はギリギリかアウト。
しかし、走る前から諦めモードになるのは悔しかったので、「1kmを○分で走れば時間内にゴールできる…」と計算してから走っていました。
走っている途中でも、「ここはスピード上げよう」「ここは落とそう」と微調整しながら走っていました。
結果、5時間の制限時間のところ、4時間50分で見事完走!
部内でもMVPに選ばれ、かなり自信がついた出来事になりました。
そしてもう一つ大きな経験としては、「部を運営していく」という「事業運営」の一部に触れられたことです。
この経験が今の自分の仕事に大きく生きていると思いますし、何より自分が「裏方として運営していく」ことの楽しさに気づいた時期でもありました。
きっかけは当時の部長から「自分の補佐として、部の運営を手伝って欲しい」と言われたことです。
内容としては、合宿先の手配、懇親会の司会進行、企画・運営、部長のスケジュール調整、メンバーのメンタルケア等、今の「オンライン秘書」の仕事にかなり関わることを行なっておりました。
もちろん一筋縄ではいかないことも多かったですが、それすらも「楽しい!」と思える活動でした。
10年近くの年月を経て、ようやく現在自分の仕事に結び付けられたと思います。
東日本大震災を経験
大学在学中は、自分の「生き方」や「将来」について考える機会が多かったように思います。
特に大きなきっかけとして、実家に帰省中、東日本大震災を経験したことです。
当時、当たり前にあった日常全てが目の前で崩壊していくのを経験したことで、「世の中に絶対に安心できる未来というものはない」ということに気づきました。
ライフラインの寸断、交通網の遮断、情報が入らない、トイレができない・・・
先の見えない恐怖と戦ううちに、精神が崩壊していく人々も多くいました。
当たり前が当たり前じゃなくなる
大事なものは大事にできる時にしておかないと後悔する
これらを強く感じた期間でもありました。
「未来の日本のためにできることは何か」
今の私の大きなテーマでもありますが、一番初めに考え始めたのも震災直後でした。
とにかく上司と上手く行かない
しかし結局答えが出ず、大学4年間を終えます。
最後まで「看護」という領域に興味の持てなかった私は、「看護師になりたくない」という理由で公務員試験を受けます。
結果、運よく「保健師」として採用していただきます。
(これが黒歴史の始まりとなるとは・・・)
右も左も分からずに飛び込んだ世界は、想像以上に過酷でした。
各地に事務所があるため、同期と離れ離れ。
同じ事務所には平均年齢50代のベテランの方々しかいませんでした。
指導者についてくださったのは、2年後に退職を控える超ベテランの保健師さん。
向こうも新人の私への接し方に悩んだと思うのですが、同じくらい私も悩むこととなります。
一番大変だったのが「事業への理解度、目線」の違いによる「コミュニケーションの取りづらさ」です。
ベテラン保健師さんは、何十年と事業に携わっているため、全体像を把握しており、今後どう進めていくのかを把握されています。
しかし、新人の私は「何が分からないのかも分からない」状態。
専門用語も多く、事業の資料を読むだけで眠気が増すほど。
会議に出席しても、一体何の会議だったのかも分からない無駄な時間を過ごしていました。
(たまに資料にお絵描きしたりして、どうにか眠気を乗り越えていました笑)
上司に確認しても、お互いの目線が異なるため、何を言っているのか分からない日々が続きます。
分からない用語を調べながら必死で資料や過去の議事録を読み込むも、全く事業の全体像が掴めない。
次第に意見も求められるようになりましたが、そもそも理解していないので答えられない。
当然ですが、「出来ない新人」のレッテルを貼られました。笑
当時は渦中にいて気づかなかったのですが、私が素直に「目線を合わせてください」と相談していればよかったのだと思います。
そんな考えを持てなかった私は徐々に出勤できなくなり、1年近く休職します。
そして入社して3年で退職することとなりました。
丁度夫と結婚し、上京する方向で動いていたため、いずれにしても辞める予定でした。
ただ、綺麗な辞め方ではなかったので、私の中でこの3年間は「黒歴史」になっています。
一方で、反面教師というか、「今度はこう上司と接してみよう」「こういうふうにコミュニケーションを取ってみよう」「私が先輩になったら、後輩とこう接してみよう」という考え方や行動パターンを多く取り入れられた期間でもあります。
これが現在チームの中で働く中で、かなり生きていると感じます。
その後上京し、結婚。新たな会社にも就職しましたが、人間関係が上手くいかなくなり、転職を繰り返すことになります。
原因はいつも同じで「コミュニケーション不足」
それでも、当時は言語化できていませんでしたが、次に活かす案もたくさんストックできてきました。
と同時に、「自分が本当に向いている職業ってなんなんだろう」と考え始めた時期でもあります。
そんな時に長男を妊娠。仕事を辞め、専業主婦になりました。
キャリアへの憧れ。「在宅ワーク」の存在を知る
私は専業主婦に向いていませんでした。
とにかく子どもと一日中2人っきりという環境にも耐えられませんでしたが、一番は「働く女性を見て嫉妬心を燃やしていた」ことです。
周りの友達は、子供が0歳の頃から保育園に預けている人が多かったのです。
また、子供を連れて支援センターに遊びに行っても、育休中のママたちが保育園の話をしている。
そのような状況にだんだん耐えられなくなり、就活を始めることにしました。
就活を始めるにあたって気になっていたのは、当時コロナ禍で流行っていた「在宅ワーク」
「家で誰とも接せずに、変な人間関係もなく、自分のペースで仕事が出来るなんて、なんて最高なんだ!!」と思いました。
ただ当時何にも知識のなかった私は、「在宅ワークが出来る職種は、私の未経験の分野だから無理だ」「資格を活かして働くと、在宅は出来ない」「在宅で稼ぐにはインフルエンサーになるしかないけど、私には出来ない」と早々に諦めていました。
そして半ば勢いで前職の会社に就職。
これまでストックしたコミュニケーションパターンを活かしまくったからか、これまでで一番良い人間関係を築けていたと思います。
そして次男を妊娠。育休に入ります。
この育休期間中の出来事が、今後の私のキャリア人生を大きく変えることになりました。
長男の発達障害とリモラボとの出会い
次男の育休中、3歳になっていた長男の様子が気になるようになりました。
それまでも「言葉が遅いな」「お友達と上手く遊べていないな」と思うことはありましたが、結局2歳半頃に言葉が大爆発したので、特に気に留めなくなりました。
しかし、育休中に新しい保育園に転園したことをきっかけに、周りの子たちとの違いが顕著に見えるようになりました。
特に大きな違いは「環境の変化に弱く、癇癪がおさまらない」「お友達と遊べない、スムーズなコミュニケーションが取れない」ことです。
癇癪は一度始まると2時間は収まりません。
むしろ、2時間で収まれば良い方です。
収まったと思っても、数分後にまた癇癪。
保育園の慣らし保育もなかなか進まず、育休中じゃなかったら対応できませんでした。
毎日午前中すらも居ることが出来ず、2時間でお迎え。
理由としては「活動に参加できず、癇癪が収まらないから」です。
なんとか給食まで食べられるようになったのは、慣らし保育開始から2ヶ月が経った6月下旬でした。
さすがにおかしいと思い、タイミング良く3歳半健診があったので相談。
発達相談を紹介され、そこで初めて「ASD傾向」と診断されました。
ASD(自閉スペクトラム症):対人関係の困難や強いこだわりなどを特徴とする発達障害の一種です。
一昔前は、アスペルガーやADHD(注意欠陥多動症)、知的障害などと言っていましたが、近年ではこれを一括りで「ASD」と呼ぶようになりました。
長男はこの中でも「アスペルガー」と「ADHD」の両方の特性が見られるとのこと。
知能がめちゃめちゃ高い反面、感情面が2歳相当と言われてしまいました。
つまり、自分の感情に気づけない、気づけないから言語化できない、環境の変化に弱い、感情のコントロールができない、という特性が現れるようです。
この結果を受け、夫はかなりがっかりしていました。
発達障害に対するイメージがまだあまり良くなかったから、というのが一番大きな理由のようです。
反対に私は納得し、早々に受け入れていました。
(後日お伝えしますが、これは盲信でした。全く受け入れるなんてことは出来ていませんでした。笑)
これからどうしていこうかを考え始めていました。
そこで心理士さんからお話があったのが「療育」です。
療育:児童発達支援のことを指し、障害のある子どもやその可能性のある子どもに対して、個々の発達状況や障害特性に応じて支援を行い、日常生活や社会生活を円滑に営むことを目的とした医療と教育の融合的アプローチです。
話を聞き、早速通わせたい!と思った私は、療育先のリサーチを始めます。
ところが、ほとんどの施設が午前中や午後の早い時間で終わるところばかり。。。
これではどう考えても仕事復帰はできません。
保育園に確認し「療育が終わったら保育園に預けられるか」など検討しましたが、結果、難しいとのこと。
それに息子の特性を考えると、保育園→療育→保育園は現実的ではないと思いました。
この出来事をきっかけに、再び「働き方」について考えるようになります。
当時、やはりInstagramのインフルエンサーという働き方しか知らなかった私は、もう一度Instagramで「在宅ワーク」をリサーチしてみました。
そこで初めてインフルエンサー以外の働き方を知ります。
代表的なところで言うと、Webライター、デザイナー、SNS運用代行、動画編集者、オンライン秘書。
そして、これらを学べるオンラインスクールもたくさんあることを知りました。
当時の私には何も知識がなかったので、これらのスキルを身につける必要がありました。
オンラインスクールに在籍してスキルを身につけるか、独学で身につけるか。
そもそも、育休復帰も近づいていましたので、本業を辞めて在宅ワークを始めるのか、本業と並行して副業からスタートするのか。
毎日毎日悩んでいました。
ぐるぐると悩んで1ヶ月が経った頃、その後の私の人生を変えてくれる広告と出逢います。
当時、何気なくInstagramを見ていると、「リモラボ」の無料勉強会の広告を見かけます。
リモラボ:女性向けオンラインスクール。在宅や好きな場所で働くことを支援する女性専用の実践型オンラインスクールです。
1ヶ月も悩んでいましたので、その間に他のオンラインスクールも検討していました。
しかしどれもピンと来ず…決めかねていました。
しかしリモラボの広告には瞬時に引かれ、勉強会にも脳みそを使わずに申し込んでいました。笑
そして勉強会参加後も、ほとんど脳みそを使わずに即入会していました。笑
それだけリモラボの雰囲気、姿勢、安心感が悩める私を突き動かしてくれたのだと思います。
結果、現在でもリモラボ生として学んでおりますし、全く後悔していません!
それどころか、私のキャリア人生を変えてくれたので、本当に感謝しております😭
ただ正直に言うと、入会してから半年近くは幽霊会員でした。笑
原因は「本業がスタートした」ためです。
結局理想の姿と目標をしっかり定めていなかった私は、本業がスタートしたことで本業の安心感にどっぷりと浸かってしまったのです。
リモラボが原因ではないですし、リモラボではしっかりと目標を一緒に考えてくれる環境があるにも関わらず、活用していなかったことが要因です。
しかし幽霊会員中にも、リモラボで届く講座のお知らせは気になっていました。
そして、子供たちの体調不良や療育の関係などで仕事を何日も休み続けるたびに、リモラボが気になったり、在宅ワークの案件を探し続けるなど、ちょっとずつ行動を開始していました。
しかし、いまいち本気になれない。
なぜなのか、当時の私は言語化出来ていませんでした。
母の死。キャリア転換に本気になる
そんな時に次男の喘息が悪化し、1週間の入院。
その後間を開かずして、実家の母の死去。
特に実家の母の死去は、私の後悔の気持ちを増幅させ、結果的に仕事を辞める決断をすることとなる出来事になりました。
母は10年前に乳がんを発症し、一度は完治していました。
しかし、次男誕生直前に再発。すでにステージ4で治療方法はないと言われていました。
それでも病院を転院し、必死に頑張る両親。
時間を見つけては実家に帰っていましたが、仕事復帰後はほとんど帰れていませんでした。
母の死去には立ち会えたものの、今でもとても後悔しています。
この出来事で「もう後悔したくない」「大切なものを本当に大切に出来て、いつ何があっても後悔しない環境を作りたい」と強く思うようになります。
そして、自分の大切なものを守るために私にできることは何かを考え出た答えが、
「子どもと父親にいつでも寄り添える環境を作る」
でした。
そしてそのためには、やはり仕事を気にせず、急に何かあっても対応できる必要がある。
そうなると、自分で仕事を自由に調整できる「フリーランス」という働き方が自分に一番合っている働き方だと気づきました。
そこからの私の行動量は凄かったです。笑
母の葬式後、すぐに会社に退職届を提出。
会社とは毎日面談がありましたが押し通し、すぐに引き継ぎ→有休消化に入ることが出来ました。
同時に再びリモラボの企画に参加し始め、マイロードマップや動画学習に改めて取り組み始めました。
案件にも毎日10件は応募し、リモラボ復活後、わずか2週間で現在のクライアントとの業務提携が決まりました!
結果、現在6企業のバックオフィス代行業務の他、SNS運用代行、営業事務を行うまでに至っています。
これまでの人生を振り返ってみて、「期限付きの目標を設定すると、行動を加速させられる」ということに気づきました。
在宅ワークを始めるまで、実に3年近く悩みましたが、「なぜ在宅ワークをしたいのか」をしっかり言語化し、「期限付きの目標」を設定したことで、目標を達成することが出来ました!
私の次の目標は、「2025年4月までに在宅ワークで月収30万円を達成すること」です。
そしてゆくゆくは60万、100万と収入を上げて起業し、「発達障害児の育児で悩むお母さんたち向けのオンラインサロン」を立ち上げたいと考えております。
育児は孤独です。
それにプラスして、発達障害児もしくは疑いのある子を育てるご家族はより一層孤独を感じております。
「結局誰も助けてくれない」「自分たちだけでなんとかしないといけない」
私も何度も感じました。
世間では子供の悲しい事件が多発しています。
孤独を感じさせない、孤立させない環境づくりが急務になっていると感じます。
私も環境づくりの一環として、ママたちが集まれるコミュニティを形成したいと考えております。
まずは、発達障害児(もしくは疑いのある子)を育てるママたちにあった多様な働き方があること、そして希望する収入を達成できる、ということを広め、皆さんに夢を持っていただきたいなと思っています。
私が達成していく過程をこのブログを通して、ぜひ見届けて頂けたら幸いです。
そして、在宅ワークのことだけでなく、発達障害児に関連する悩みや、マインド、リラックス方法など多岐にわたるテーマでアプローチしていきたいと考えています。
このブログが、キャリアを諦めず発達障害の子へ寄り添える生活を実現できるヒントとなれば幸いです。